人を呪わば穴二つ

2008.11.28.

先日、麻生首相が地方の医師確保策について意見を求められたのに対し、「(医者は)はっきり言って社会的常識がかなり欠落している人が多い」と語って問題となりました。

では、スポーツの上達に関する本で次のように語るのはどうでしょうか。
『筋肉を「高反発ゴム」に変える』という本からの引用です。

「スポーツの指導者になる人は、どんな人ですか?」って、それは当たり前「その競技が上手かった人」です。その人たちは、抜きん出た才能があったとか、競技会で一定レベル以上の成績を出したとかで、少なくとも「やってもやっても上手くならない人」は、指導者にはなりません。
だから、スポーツ指導者はどうしても間違ってしまうのです。

太字は原文の通りです。以下のように続きます。

指導を受ける側の集団にはこれから勝手に上手くなる人と、いくらやっても上手くならない人が混在しています。そして、現在指導的立場の人は「これから勝手に上手くなる人」だったから、指導者になれたのです。
つまり、その人たちは「やってもやっても上手くならない人」が、どうして「自分が教わった通りに教えても」「自分が工夫して教えても」出来ないのか理解することが出来ません。


「どうしても間違ってしまう」とか「理解することが出来ません」なんて、ずいぶんな言いようだと思うのですが、これを読んだスポーツ指導者はどう感じるでしょうか。
スポーツ指導者の方々は自身のことを「勝手に上手くなった人」と思っているでしょうか。「やってもやっても上手くならない人」が問題を抱えている理由が理解できないという指摘を肯定するでしょうか。

指導を受ける人の運動能力もさまざまです。「これから勝手に上手くなる人」と「やってもやっても上手くならない人」という分類は妥当な考え方でしょうか。「これから勝手に上手くなる人」と「やってもやっても上手くならない人」との間には、どちらとも言えない中間的な人たちが無数にいると思うのです。
身体の硬い人や柔らかい人、開脚はできるけど前屈はできない人やその逆の人、筋力がある人やない人、球技は得意だけど格闘技は苦手という人、格闘技は得意だけど球技は苦手という人などなどです。
ある人には効果があった指導法が別の人には通用しない、単純にこのメソッドが良いとは言えないから、スポーツ指導は難しいのです。

誰かがスポーツを指導する立場に着くにも、いろいろなきっかけがあるでしょう。
自分が卒業した大学や高校のクラブに帰る、職場のクラブでリーダーになる、教師として着任した学校でクラブ活動の責任者になる、子供が熱中しているスポーツに興味を持ちそのスポーツの勉強を始める、スポーツクラブに就職する、などなどです。
スポーツの指導者になる人が「その競技が上手かった人」であることが多いとは思いますが、「当たり前」とは言えないと思うのです。どちらとも言えない中間的な人たち(「やってもやっても上手くならない人」に限りなく近い人も含めて)、練習で苦労を重ねた人たちが指導者になることも多いと思います。

著者の言わんとすることを、もしも私が言うなら、「なかなか上達しない人」に「それほど悩まずに上手くなった人」があれこれ説明しようとしても、感覚的なニュアンスが伝わりにくく、なかなか意図が通じないことがある、というような表現にすると思います。
どんな人がスポーツ指導者になるかとか、スポーツの指導を受ける人たちがどんな人たちであるかなどは書かなくてもよいのではないでしょうか。
スポーツ指導の現場にどのような不都合があるかを具体的に書き、その不都合に対して自分はこのような提案ができる、と書いていけばいいと思います。

もう1カ所引用します。

人は骨によって支えられていなければ、人間のカタチを保つことが出来ません。またすべてのスポーツは、このカタチの人間がやるのですから、人間をカタチ作る骨格を無視してはスポーツを考えることは出来ません。
しかし実際は、よい動きが自然に出来てしまった人(レベルの高いプレーヤーはみんな自然に出来てしまった人で、その人たちは考えずにできてしまったので、あらためて骨格を考えることがないのです)と、その人たちが作った指導法を受け売りで教えている人がスポーツの指導者なので、骨格がどのような仕組みで動いてプレーしているのかが分からないまま、外から見たフォームと、感覚だけを伝えることになるのです。


これも太字は原文の通りです。「骨格を考えることがない」とか「受け売りで教えている」とか、ケンカを売りたいのかしらと心配になります。
スポーツの指導者育成を目指した大学や専門学校では解剖学や生理学も教えているはずですが、それが不十分だということでしょうか。
「その人たちが作った指導法」とは具体的にどなたの指導法のことを指しているのでしょうか。日本中のすべてのスポーツ指導法が「骨格を考えることがない」と言うつもりではないと思うのですが。

これについても、著者の言わんとすることを、もしも私が言うなら、骨格や筋肉について勉強して動きを考えましょう、というような表現にするでしょう。「よい動きが自然に出来てしまった人」のことをどうこう言う必要はないと思います。
骨格について知らないで動いていると関節を痛めたり、余計な力を使ってしまうことになる、だからこういう知識を仕入れておこう、と話を進めていけば十分ではないでしょうか。

ここに引用したような部分を離れて、この本の全体を見渡してみれば、参考にしたい部分もいくつもあるのです。
遠心力に関する誤解を指摘する部分とか、よい姿勢のコツとして胸郭の前の部分を意識する方法とか、なるほどと思いました。
スポーツ指導者の方々にいろいろ言いたいことがあるように感じられますが、何を問題としたいのかを明確に限定しないと、麻生首相の発言のような波紋を広げることになってしまいかねません。

こういう批判的な文章を書くことは、人や本をほめる文章を書くよりずっと難しく疲れます。本稿を書くか書かないかしばらく迷っていましたが、麻生首相の失言騒動に触発されました。
時にはこのようなことも書いておかなければ、などと思いましたが、評価は皆様にお任せするよりありません。



筋肉を「高反発ゴム」に変える 『筋肉を「高反発ゴム」に変える』

著 者: 池上 信三
発 売: 健康ジャーナル社
定 価: 1,500円+(税)

「プライマリーモーションは「筋肉がゴムで、動きがバネ」「ゴム筋肉・バネ動作」を基本とした運動指導法(理論)です。レベルの高い選手は教わらなくても筋肉をゴムとして使い、バネのように動きます。逆に、いくら教わっても上手くならない人は筋肉をギュッと縮めて動こうとしているからギクシャクとして上手く動けません。」
(「はじめに」より)

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補足:
「人を呪わば穴二つ」とは、 人を呪い殺そうとすれば、その人を埋める穴のほかに、自分を埋める穴も用意する必要がある、ということ。人を陥れようとすれば自分にも悪いことが起こるというたとえ。
転じて、人のことはとやかく言わないほうがいいよ、くらいの意味でも使います。

補足:
この本のことではありませんが、雑誌やテレビなどで「西洋医学」に対して批判的な言葉が投げつけられることがあります。こんなことがわかっていない、とか、この病気は治せない、とか。
一方、肘や膝や腰を手術することで選手生命を長らえているスポーツ選手もいます。予防接種は全国的に実施されていますし、レントゲンで早期に発見したガンを手術で切除して危機を回避する人もいます。「西洋医学」の恩恵を受けている人は大勢います。
自分が批判したい「部分」だけを取り上げて「全体」を批難するのはフェアではないと思います。
何をどういう理由で批判するのか、それを明確にすることこそが説得力を生むと思うのです。むやみに批判の対象を拡大するようなことは慎むべきことです。

蛇足:
麻生首相の言葉には、マスコミが語らない(わざわざ取り上げない?)もうひとつの問題点があります。
麻生首相は冒頭に引用した言葉の前にこう言っています。「自分が病院を経営しているから言うわけじゃないけれど、大変ですよ」と。つまり、自分の病院にいる医者に「社会的常識がかなり欠落している人」が多いから、自分は大変な思いをしていると言っている(そのように解釈できる)わけです。
この病院に勤める医師たちはどう思うでしょうか。この病院の経営者は自分たちのことをそんなふうに見ていたんだと感じるでしょう。
麻生首相はご自分が経営する病院に戻ってフォローしたのでしょうか。それとも、そのようなフォローが必要ないほどの信頼関係があるのでしょうか。
(↑このようなイヤミを言う人に「人を呪わば穴二つ、だよ」と言ってあげるわけです)