ことばと動き

2010.7.4.

このサイトでは、何度も野口三千三の言葉を引用しています。
世の中には運動やスポーツに関する本が無数にありますが、繰り返し読むに値する本はごく少数です(といっても、数万の中の数百ぐらいの数はあるかもしれませんが)。
私にとっては野口三千三の編み出した言葉は、太極拳や武術、スポーツなどの本質を考える上で重要な拠り所です。

「もしも今までの人類の中で、言語化に真剣に取り組む人がもっともっと多かったら、このような感覚についてのことばは、現在あるよりもはるかに豊富で変化と多様性をもっていただろう。そして同時に、現在の人間の身体感覚もすばらしく鋭敏繊細、豊かでたくましいものとなっていたに違いない」
(『原初生命体としての人間』第5章「ことばと動き」より)


この「言語化」ということばの意味には注意が必要です。野口三千三はコーチから選手へ、先生から弟子へ、先輩から後輩へというコミュニケーションのための「言語化」を主張しているのではないからです。

「とにかく言語化してみないと、せっかくつかみかけたものも、それに似ているすでに言語化されて強いエネルギーをもったものにくっついてわからなくなってしまう。からだの感覚や能力を、いわゆる随意化(コントロール)するためには、何としても言語化することが先決である。この作業は無限につづく性質のものではあるが……」
(同書)


野口三千三のいう「言語化」とは、自分自身のある(動きの)感覚を明確にする(他の(動きの)感覚と区別する、制御可能にする)、自分自身をターゲットにした作業なのです。

野口三千三の最初の著作である『原初生命体としての人間』は、1972年に三笠書房から出版されました。岩波書店から発売されているのは、その改定版です。改訂版が出版されたのは1996年ですから、最初の出版から20年以上の歳月が流れています。
野口三千三はこの改定に関して「あとがき」の中で、「省けるところは、可能な限り省いてみた」と書いています。同時に、「動きの説明に関しては(中略)ほとんどそのまま残してある」と書いています。さらに、「今では、もっと違ったあり方をしている動きが多い」とも書いています。

「私はことばにならない世界こそ人間の、そして体操の本質があると考えている。しかし、自分のからだを手がかりにこの考え方を進めれば進めるほど、ことばの問題に深くかかわっていることに気がつかされる。体操の問題のすべてがことばの問題である、とさえ考えられるのである」
(同書)


繰り返しになりますが、ここで野口三千三は、コミュニケーションの手段としてのことばを語っているのではありません。続きを引用します。

「ことばはあくまでも自分自身の内側の問題(認識・思考・創造)であって、自分自身を確認するためにある。ことばがもつ、他とのコミュニケーションの媒体としての意味(伝達・表現)も、自己(人間)の実存(現実存在・事実存在)の確認のひとつの方法としてあるにすぎない」
(同書)


ことばによるコミュニケーションを否定しているのではありませんが、自己の確認の「ひとつの方法」にすぎない、として相対的に位置づけされています。この点を理解すると、次に続くことばは決して過激なものではありません。

「したがって、今あることば、その意味・概念は、ほんとうに自分がそう思うならば、他がどうあろうと、まったく自分勝手に決めてしまってさしつかえない。また、今ないことば、それがほんとうに自分にとって必要であるならば、他に通ずるかどうかは二の次で、勝手にことばを創り出し、勝手に使っていっこうにさしつかえない」
(同書)


しかし、そのように個人個人が勝手に言語化を押し進めたら、どうなるのでしょうか。コミュニケーションが成り立たなくなってしまわないのでしょうか。
野口三千三はそうは考えていません。
このような個人的な言語化が「ほんもの」のことばを生みだすと信じているからです。

「勝手に創り、勝手に使ったものが、もし「ほんもの」のことばであるなら、おのずから他を触発するエネルギーをもつはずだ」
(同書)


我々、個人個人の運動感覚は誰からも与えられるものではありません。
買うことも、奪い取ることもできません。逆に、与えることもできません。
遺伝もしませんし、相続もできません。
誰もが一からのスタートです。
(とは言っても、生後数カ月の環境、幼少期の生活習慣などが大きな意味を持つことは避けられないようですが、ま、それは別に考えるとしましょう)

練習を繰り返し行ないながら、未知の感覚を育てていくのは難しい作業です。
機械的に身体を動かしているだけで身につく動きもありますが、動きの精度を高めていくためには感覚を磨くことが必要です。

太極拳の世界では、「立身中正」「平目平視」「沈肩垂肘」「上下相随」などのことばがあります。こうした先人のことばが残されているのは、たいへん幸運なことかもしれません。

では、太極拳を練習している方にお聞きします。
「立身中正」「上下相随」などのことばは、コミュニケーション(伝達・伝承)のために作られたことばでしょうか。それとも、個人的な言語化(意識化)の過程で生み出されたことばでしょうか。


原初生命体としての人間 『原初生命体としての人間』(岩波現代文庫)
著者: 野口 三千三
出版社: 岩波書店
定価: 1,050円(税込)

「私は、音声言語・文字言語だけが言葉ではなく、からだの動きもことばであると考えている。そして、身ぶり、手ぶり、顔の表情などのように、外側に大きく、はっきり現れているものだけがからだの動きではない、とも考えている。身ぶりの本質は、心や内臓も含めたからだの中身の変化である。(中略)ことばの本質は情報であり、動きであり、変化である」
(第5章「ことばと動き」より)

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補足:
野口三千三の朝日カルチャーセンターの講座を引き継いだのが羽鳥操先生です。
羽鳥先生は新たに著作を発表するだけでなく、大学生に野口体操を教えたり、ホームページやブログを開設したり、最近ではツイッターを始めるなどして、野口体操の考え方を広く世間に知らしめるべく活動しています。

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野口体操公式ホームページの「アーカイブス野口体操」ページに行くと、野口体操の公開講座の動画があります。
野口三千三のレッスン風景を動画で見ると、冗談を言ったり、生徒さんに話しかけたり、よく喋る先生だという印象です。
もちろん、ふざけ半分ではないのです。熱心さのあまり、というのでしょうか、あれもこれも言いたいという感じが伝わってきます。
DVD版『アーカイブス野口体操』に収録されている養老先生との対談でも、主役は野口先生のほうでした。