『脳のなかの水分子』

2006.9.10.

全身麻酔と局所麻酔では異なる薬を使用するということをご存知でしょうか。局所麻酔の薬では全身麻酔はかけられず、全身麻酔の薬では局所麻酔はかけられません。

「局所麻酔が特定部位の神経伝達をブロックする作業であるのに対して、全身麻酔とは、大脳皮質の機能を抑え、意識そのものを取り去ってしまう操作なのである」

そして、全身麻酔薬がなぜ機能するかについては未だに明確にされていません。医療の現場では経験的な知識によって、使用する麻酔薬の量などを決めているのです。

ライナス・ポーリングという優れた科学者がいました。ポーリングはノーベル化学賞およびノーベル平和賞を受賞しています。二つのノーベル賞をそれぞれ単独で受賞しているのはポーリングだけです。
ポーリングは、全身麻酔薬の機能の解明に大きな手がかりを残しました。

「ポーリングは、水分子と水分子とがお互いにくっつきやすい状態をつくることが、全身麻酔効果の分子機序であることを発見したのである」

さて、水と全身麻酔はどのように関わっているのでしょうか。

水は当たり前のように存在する物質ですが、その性質はユニークなものです。
温めにくく冷めにくい、熱をよく伝える、いろいろな物質を溶かす、氷(固体)が水(液体)に浮くなど、他の液体に見られない特徴を有しています。
水の分子式と言えばH2Oですが、水はこの水分子だけの単純な集合体ではないのです。それが水のユニークな特性を生んでいるのです。

「液体の水は(中略)、水分子(H2O)、ヒドロニウムイオン(H3O+)、水素イオン(H+)、水酸化物イオン(OH-)、大小さまざまな水分子のクラスターが、それも、それぞれがそれぞれの形態と役割とを常時変化させながら存在する複合体である」

人間の身体の80%は水であるとはよく知られていることです。TVコマーシャルでも言われています。細胞の中身は水です。水が充満しています。当然ながら、脳にも水があります。
そして、ある種の物質(全身麻酔効果のある物質)は、水の中の結晶水和物の形成を促進します。

「全身麻酔薬は意識をとる。そして、その分子機序が結晶水和物の形成にある(注1)ことには、疑いの余地がない。同時にそれは、人間の意識の根源が、脳が覚醒しているという状態を作り上げる機序が、脳の中の水分子のふるまいに依存していることを保証しているのである」

心臓外科医を志していた著者は、ポーリングの論文に出会い、脳科学の道へと転身します。

「それは、あたかも、この世で最大の宝が隠された場所を描いた地図を、たった一人で見つけてしまった瞬間のようであった。(中略)とにもかくにも、ポーリングの残してくれた偉大なる遺産を風化させてはならない。それが私に課せられた使命であると強く思いこんでいた」

MRI(磁気共鳴画像)という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。この手法で映し出した人体の断面図をご覧になったことがあると思います。
MRIはNMR(核磁気共鳴)という物理現象を利用しており、放射線を使っていません。

「MRIとは、身体を形成する水分子が、与えられた特別な周波数に音叉のように共鳴して起こす、ほんのわずかな信号を捉えて画像を作り出す技術である。いわば、MRIの画像とは、水分子の奏でるシンフォニーのようなものである」

脳科学の道に進んだ著者は、今やこのMRI開発の世界的権威として知られています。
しかし、著者が脳について提唱している理論は、自身の言によれば「危ない科学との汚名を着せられている」のだそうです。

一日も早く、著者の理論が具体的な実験データによって検証され、公式に認められるときが来ることを期待しています。

また本書は、DNAからタンパク質が生成される過程や、原子と原子が結合して分子となる仕組み、ニューロンが電気的な信号を発生させる仕組み、細胞内外で水が果たす役割などなどに関する、優れた科学読み物でもあります。



脳のなかの水分子 『脳のなかの水分子 意識が創られるとき』
著 者: 中田 力
発 売: 紀伊國屋書店
定 価: 1,680円(税込)

「(前略)ヒトの脳は、はじめて火を使うことを覚えた時代からコンピュータの支配する現代まで、あらゆる情報環境の変化に適合している。これは、連合野に蓄えられる情報の種類に規格がないことを意味する。もし、蓄えられる情報の基本要素に制限があったとしたら、ヒトの脳は、これほど柔軟な情報処理装置とは成りえなかったのである。大脳連合野のそれぞれの部分が、生まれてくる前からどのような仕事をするべきかを決められているのだとすれば、施行可能な機能は、極端に限られたものとなる」
(「脳という名の複雑系」より)

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注1:
本書の別の言葉を借りれば、「ポーリングは、全身麻酔効果のある薬剤のすべてが水のクラスター形成を安定化し、小さな結晶のようなものを作り出すことを見つけ出した。水分子と水分子とを互いにくっつき易い状態にすることが、全身麻酔効果の分子機序であったのである」