『ボクシングの指導』

2008.5.25.

この間、突然過去のある記憶が戻ってきた。学生時代にいくつかの体育科目(一般教養科目)の中からボクシングを選択したことがあったのだ。
どんな授業だったかはまったく覚えていない。サンドバッグを叩いた記憶もない。リングに上がったこともないと思う。たしか、出席しなくても単位が取れるという噂があったのだ。それで、ほとんど授業に出ることなく、その噂通りに体育の単位をもらったのだと思う。
そんなような(まことにあいまいな)記憶だが、夢ではなかった証拠に、その教科書が本棚の片隅に残っていた。奥付を見ると、昭和51年 初版発行とある。もう30年以上前の本である。

このような本をわざわざ取り上げるのは、21世紀の現時点で読んでも違和感を感じさせない、論理的で説得力のある内容に驚いたからだ。

  1. 運動を起こさせようと思えば,慣性に打ち勝つだけの力がなければならない。
  2. 力を伝える物体の質量が大きければ大きいだけ,そして,それが速く動いていれば動いているだけ,大きい力を伝える。
  3. 主働筋を用いることが多ければ多いだけ,より多く力が得られる。
  4. 運動に役立たない筋肉の使用が少なければ少ないだけ、エネルギーの消費は少ない。
  5. 運動が連続的であればあるほど,多くの力が得られる。
  6. 筋肉が十分に伸ばされれば,それだけ筋肉が出す力は大きくなる。
  7. 筋肉の収縮が速ければ速いほど,「てこ」の端のスピードが大きくて,大きい力が生まれる。そして収縮のスピードが遅ければ遅いほど,エネルギーの必要量は少ない。
上記は、「ボクシングの力学」という節からの引用だが、著者は人間の運動は「てこ」の組み合わせだと説明している。この引用部分に続いて、作用反作用の法則の解説があり、パンチ力を強化するためには常に「スピードを増大させる」練習が必要だと説明している。

このような筋肉・骨格面でのトレーニングの解説にとどまらず、著者は「調整力」というものの必要性に言及する。

ボクシングの練習者は,ある独特の運動手法(技)のセットを身につけていなければならない。それは,一騎打という状況の変化に応じて,自分が保有するセットの中で最も適した技を使うことが必要である。この場合,その練習者の行動の成否は,その瞬間に最も適した技をどのくらいの速さで選び得るかによってきまるのである。したがって,必要な運動課題をより迅速により正確に解決する練習者が,調整力において最も勝ることになる。

このような「調整力」を発達させるためには、いろいろな運動の経験が必要だという。著者は球技(バスケットなど)や器械体操も有効なトレーニングだと述べている。

調整力を発達させ,運動を自由に行なう能力を向上させるには,筋肉の緊張を操作し,運動中の必要な瞬間に筋をリラックスさせ,運動に必要のない筋肉を参加させずに必要な筋肉だけを結集して,しかも運動終了と同時にこの筋肉をリラックスさせる能力,すなわち,随意に運動に参加する筋肉を自由に緊張から解緊させる能力を発達させることが大切である。

一般にボクシングのトレーニングと言えば、ランニング・縄跳び・パンチングボール・サンドバッグ・シャドウボクシング・スパーリングなどの光景がイメージされると思う。仰向けになった選手の腹の上にトレーナーが重いボールを落としているシーンを思い出す人もいるだろう。
このようなトレーニングはもちろん必要なことで、敏捷性や筋力、持久力に劣れば勝利を手にすることはできない。
だが、他の選手を上回る能力を得るためには、これらに加えて「調整力」を磨く練習を工夫しなければならないだろう。

本書の巻末には、解剖学・運動学・栄養学などの多数の参考文献が列挙されている。このような本が生まれてくる土壌が30年前の日本にはすでにあったのだ。

先日、女性選手によるプロボクシングの試合が行われた。日本人の「ミリオンダラー・ベイビー」が生まれる日も案外近いのかもしれない。

選手自身も人間の身体構造や生理を熟知し、選手生活が長く続けられるような、健康にも配慮された合理的なトレーニングが行われる。日本のボクシング界が、こうしたことが当然であるという状況にあることを期待したい。


ボクシングの指導 『ボクシングの指導』
 著 者 : 田中 宗夫
 発 売 : 不昧堂出版
 定 価 : 1,300円(当時)

「効果的な姿勢は,テコの利用,打撃の方向,振り子運動,および慣性や運動量などの物理的原理に合った姿勢であるかどうかによって決まる。力を最も有効な方向にはたらかせることは,姿勢を完成させるための基本になるのである。「力は質量×加速度に等しい」という物理的原理は,ボクシングの場合には,基本姿勢を維持しながら,体重とスピードとタイミングを利用してパンチ力を加えなければならないということである」
(「第4章 ボクシングの基本技術」より)

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注:
3年半ほど前に感想文ページで体操の古い本、『図説 徒手体操』を紹介した。その中で、「明治以来の日本の体育(体操教育)の歴史に立ちかえるような企画が立てられないものだろうか」と書いた。
第二次世界大戦後に限ったとしても、体育・運動関連の分野には多くの名著があったのではないだろうか。