『カスパー・ハウザー』

カスパー・ハウザーとは19世紀初期のドイツに生きたある青年の名前である。
彼が誰の子で、どこで生まれたかはわかっていない。1828年5月、ニュールンベルクの街に突然現れ、1833年12月、何者かによって暗殺された。

カスパー・ハウザーが発見されたとき、彼は足許がふらついてろくに歩けず、言葉もしゃべれなかった。彼は近くに住んでいる騎兵師団の指揮官宛ての手紙を持っていたが、その指揮官には思い当たることがまったくなかった。彼の身柄は警察に委ねられた。
警官や判事が彼の取り調べを行ったが、何一つとして得られることはなかった。彼はまったく会話ができなかったからだ。だが、紙とペンを渡されると「Kaspar Hauser」と書いた。彼はその名で呼ばれるようになった。

やがてわかったことは、カスパー・ハウザーはごく幼い頃から狭い部屋に幽閉され、パンと水だけを与えられて育ち、他人の存在を理解できず、時間の観念もなく、外の世界というものをまったく知らずにいたということだった。

カスパー・ハウザーは初め、パンと水しか受け付けなかった。水以外の飲み物や肉などには臭いをかいだだけで不快感を示したという。

「ほんの一滴のワインやコーヒーなどを、こっそり水に混ぜて飲ませても、彼は冷や汗をかいてしまい、吐き気や激しい頭痛に襲われてしまうのだった」

また、カスパー・ハウザーの視覚は当初は充分には機能していなかった。
後日わかったことだが、彼は窓から見える景色というものを認識できなかった。彼は窓を閉ざしたよろい戸に白や青や緑、黄などの絵の具で描かれた模様を見ていたのだ。

ところが、カスパー・ハウザーの視覚能力は驚くべきものだった。
彼は夜でも昼と同じ歩調で歩いた。夜、手すりを探りながら歩く人を見て、笑ったという。

「夕暮れが近くなったころ、彼は教授に、かなり離れたクモの巣にブヨがひっかかっているといって教えたことがある。(中略)詳しく調べてみた結果、彼は完全な暗闇でも、青と緑といった暗さの異なる色を正しく識別できることがわかった」

同じように、聴覚や嗅覚も常人よりはるかに鋭敏だった。
また、金属や磁石に関しては特別な感覚を示した。

「ダウマー教授が磁石の陰極を向けた時、カスパーは手で自分の腹のくぼみを押さえ、チョッキを外側に引っ張るようにしながら、空気が自分の中から出ていくみたいだ、といった。陽極の方を向けた時は、それほどでもなかったが、空気が入り込むみたいだといった。(中略)教授は、カスパーに気づかれないようにして、その後も同様の実験をやってみた。しかし、カスパーの感受性はいつも正確だった。磁石をかなり離しておいても、陰極と陽極どちらの方を彼に向けた場合でも、同じようであった」

世間に現れたばかりの頃、カスパー・ハウザーはろくに歩けもしなかったが、やがて、乗馬の才能を発揮して人々を驚かせた。
彼は乗馬の基本やこつを教わるとすぐにそれを覚えてしまった。

「いつだったか、教官が気の荒いトルコ馬の調教に四苦八苦していた時、カスパーはさして恐れもせず、教官にその馬に乗せてくれと頼んだりしたことがあった。(中略)とくに彼は、元気でたくましい脚の速い馬が好きで、何時間もぶっつづけで飽きもせず乗り続けることがしばしばだった」

カスパー・ハウザーは熱心に学習し、恐ろしいほどの早さで知識を吸収した。
周囲の人が回顧録を執筆してはどうかとすすめるのを受けて、自伝を書けるほどだった。

1829年10月、彼は何者かに襲撃され、額に大きな傷を負わされる。
1833年12月、彼はアンスバッハという街の公園で何者かに胸を刺され、3日後に死亡した。

カスパー・ハウザーをめぐる一連の事件はヨーロッパ中の人々の関心を集め、医学界、文学界など各方面を刺激した。小説や詩の題材になることもたびたびであった。
カスパー・ハウザーは当時の王位継承者の子息であるといった説が広まる一方、ただのペテン師であると主張する人もいた。

カスパー・ハウザーの身体的特徴が調査されている。
彼の膝は筋肉や腱の付き方が常人と異なっていて、彼が脚を前に伸ばして床に座ると、膝が完全に伸びきり、膝の下が床と密着したという。「トランプのカード1枚ですら、その間にさし込むことが無理なほど」だったと報告されている。
(このような膝の変形が彼をペテン師ではないと証明していると私は思う)

カスパー・ハウザーの出現と最期にはいろいろなことを考えさせられる。
身体的な事柄に限ってみても、ヒトの持ちうる能力についてもっと可能性を広く大きく考えなければならないような思いにさせられる。
人類(ホモサピエンスおよびその先祖)は、その発達した脳(知恵)で厳しい自然淘汰の世界を生き抜いてきたと一般には言われている。
しかし、こういう見方を付け加えることはできないだろうか。

現代人はヒト科の動物が有しうる能力を過小評価しているのではないか、と。
人類は、カスパー・ハウザーが示したような鋭敏な感覚と優れた身体能力によって、火や道具の使い方を見出すまでの永い年月を生き抜いたのだ、と。 2009.3.1.


注1:
1828年は日本では江戸時代の末期、西郷隆盛が生まれた年である。文豪トルストイが生まれたのもこの年。

注2:
本書の注釈によれば、カスパー・ハウザーのことをペテン師だと疑った人もいた。その根拠のひとつが乗馬が上手すぎることだった。

補足1:
『ウィキペディア(Wikipedia)』の「カスパー・ハウザー」の項を見ると、ヨーロッパでは未だにカスパー・ハウザーへの関心が失われていないようだ。
1996年には、カスパーがはいていたとされるズボンに残った血痕の分析が行われ、2002年には「カスパーのシルクハットの汗の染みとアンスパッハのカスパー・ハウザー博物館にある髪の毛、ならびに彼の養父アンセルム・フォン・フォイエルバッハの遺品の中にあった髪の毛を分析した」とある。
しかし、カスパー・ハウザーの出自は今もって謎のままである。

蛇足:
このミステリアスな出来事はドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークによって映画化されている。『カスパー・ハウザーの謎』(1974)は、カンヌ映画祭(1975)で国際映画批評家連盟賞・審査員特別賞を受賞した。

『カスパー・ハウザー』

著 者:
A.v.フォイエルバッハ
訳 者:
中野 善達・生和 秀敏
出版社:
福村出版
定 価:
1,400円+税

「私は彼に、やがてやってくる冬についての話をしたことがある。その時、家の屋根や街の通りも、彼の部屋の壁のように真白になるだろうと、と話した。(中略)次の冬、最初に雪が降り、通りや屋根が白くなっているのを見て、たいへん喜んだ。そして、その「白いえのぐ」を取りに庭へ降りていった。やがてすぐに、彼は「白いえのぐが指を痛くした」とどなりながら、泣きじゃくって走って帰ってきた」
(「第5章 日常の生活態度や視覚の特徴」より)


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