1.主観と客観のずれ

以前『運動神経がよくなる本』という本の中で、速く走るためには「地面を下に蹴って走る」のだと書かれていることを紹介しました。このことについて、さらに詳しい説明が出ている本を最近読みました。そこで考察されていることが面白いと思ったので取り上げてみます。

『身体運動における右と左』という本の本来のテーマは、左右両側の筋肉を同時に使ったときの最大出力が、片側だけ使ったときの最大出力よりも低下するということです。人間の運動制御について、脳や神経レベルでの研究を詳細に論じていてかなり専門性が高い本です。一方、同書の後半では、かつてのラグビー選手であり、ラグビー代表チームのトレーニングコーチの経験もある著者が、いくつかのテーマについて比較的わかりやすく説明しています。そのひとつが「主観と客観のずれ」です。著者は短距離走を例に取り上げて「主観と客観のずれ」について説明します。
まず、短距離ランナー(スプリンター)が速く走るために必要な要素は次のようなものです。

1) スイング期(キックし終えた脚が次の着地をするまでの局面)の動作で、疾走速度と正の相関があったのは、接地直前の振り戻し速度であり、その他の動作(引き付け、もも上げ、振り出し)は疾走速度と関係なかった。

2) 引き付け動作は大腿の前方スイングの加速によって受動的に引き起こされるのであって、意識して引き付けるのではない。また、下腿の振り出し動作も、大腿の前方スイングの減速によって受動的に引き起こされるのであって、意識して振り出すのではない。

3) キック期の動作で疾走速度と正の相関があったのは、股関節の最大伸展速度のみであり、膝関節、足関節(足首)の伸展速度は疾走速度と関係がなかった。

4)~6) [省略]

7) 以上より、より高い疾走速度を得るためには、接地直前に膝を伸ばしすぎずに、脚の振り戻し速度を高くし、その速度を利用してキック局面の前半から中間時点までの脚の後方スイング速度を高めることが重要である。
(第3回世界陸上競技選手権大会(1991年、東京)における日本陸上競技連盟バイオメカニクス研究班の調査報告より)

同研究班の分析によれば、カール・ルイスは脚の後方スイングが日本選手より約2倍速かったのです。
ところが、ルイスは後方スイング自体の動きは練習していないというのです。カール・ルイスのコーチ、トム・テレツの言葉が引用されています。「大事なことは、膝を高く上げすぎたり、上体を反らせたりせず、そのままでリラックスを保って脚を動かすことです。足を前に振り出してはいけません。足を下に踏みつける、地面を踏みつけることを注意して行います(前後省略)」
つまり、実際に走るときの感覚としては「脚を真下に踏みつける」が適切だというのです。地面を前から後ろに向かって掃くように脚を動かそうとしても、脚の後方スイング速度を高める動きにはならず、疾走速度は上がりません。むしろ後方スイングを忘れて「脚を真下に踏みつける」ように意識して走れば、結果としては脚の後方スイング速度を高める動きができるというのです。(実際にはもっと詳細に記述されています)
つまり、客観的要求(脚の後方スイング速度を高めること)と主観的イメージ(脚を真下に踏みつける)との間にずれがある、というわけです。
このような「ずれ」は短距離走だけの問題でしょうか?
太極拳やその他の武術、あらゆるスポーツにあるのではないでしょうか。
太極拳の場合、姿勢を前傾(あるいは後傾)させないとか、膝とつま先の向きを一致させるとか、肩や肘を上げないとか、下を向かない、などなどの客観的な要求がありますが、これらをそのまま主観的イメージに投影して(意識して)動いてもなかなか要求通りにはなりません。
そこで、さまざまな主観的イメージが工夫されてきたように思うのです。さがるときは背中からさがるとか、丹田を意識するとか、水の中を歩くようにとか、ボールを水に沈めるようになどの教えです。
自分の動きを見直すにあたって、このような「ずれ」の存在を認識していれば、理論と実践の溝を小さくすることができるのではないでしょうか。

(1) 運動に関する記述(教え)が「客観的要求」なのか「主観的イメージ」なのかを区別すること。
(2) 「客観的要求」と「主観的イメージ」の間にある「ずれ」を理解すること。
(3) ある「客観的要求」がそのままのイメージでは実現が困難な場合、その「客観的要求」に応える「主観的イメージ」を工夫すること。

分析的(物理学的・解剖学的)側面から客観的な情報を得ることは大切なことです。自分がしているつもりのことが客観的にはどういう性質をもっているのか、それを知らなければスタートラインにも立てません。
そうして得た情報が直ちに、動く主体としての自分に取り込めることもあるでしょう。しかし、必ずしもそうはなりません。客観をいかにして主観に「戻してやる」か、そこに工夫が必要となる場合もあります。
『身体運動における右と左』の著者はこの営みを、「客観的総合」から「主観的総合」へと2段階の総合があって初めて「運動というものが自分の世界に戻って」くると記しています。 2002.07.07.

『身体運動における右と左 - 筋出力における運動制御メカニズム』

著 者:
小田伸午
出版社:
京都大学学術出版会
定 価:
定価: 2,625円(税込)


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