8.下手な稽古と駄目な稽古

「できないこと、それが駄目なことを意識して、静かに稽古を重ねるのである。これを「下手な稽古」と言う。下手な稽古には上達の道が拓けているが、自分の身体が動かぬことを認識せずに、悪しき日常動作のまま自分勝手に動くものにはそれがない。それは万年稽古と言い、いつまで経っても駄目なままで、術技は上がらない。いくら太刀や竹刀の操作が敏速、俊敏になっても、それは運動競技的価値判断に基づくものであって、ただそれだけでは武術的には無であることに変わりはないのだ。」

このタイトルは黒田鉄山の本にあったことばです。黒田鉄山の道場である振武舘に代々伝えられてきたことばなのか、日本の古流武術の世界一般に使われていることばなのかは知りませんが、厳しいことばです。

自分の稽古に疑問をもたない人はいないと思います。誰だって早く上手になりたいと思うものでしょう。黒田鉄山の本を読んでからは、いつもこのことを考えます。自分の稽古は「下手な稽古」になっているだろうか、「駄目な稽古」になっていないか、と。 動けない自分と向き合うことなしに下手な稽古はできません。型の動きを自分に都合のいいように変えていないでしょうか。「できる」、「できた」と思っているのはおそらく自分だけなのです。何回でも繰り返し繰り返し自分に疑問をぶつける、それがなければ動きは変わらないでしょう。変わらなければ術技の向上も生まれようがありません。

先の文章の続きです。

「意念、意思によって身体の動かぬ所を働かせようとすれば、同じ人間でも、その稽古内容の次元が大きく変わる。「下手」と「駄目」との差は、自覚的にも他覚的にも比べようのないほど大きなものである。正しい方向づけを意識するからこそ、極めて静かな稽古というものが重要な意味をもってくるのである。」 2002.11.04.

『気剣体一致の武術的身体を創る』

著 者:
黒田 鉄山
出版社:
BABジャパン
定 価:
1,995円(税込)

「しかし、「極意」を伝えようとする武術の門派に身を置く身ならば、身に染みついた「常識」は稽古の妨げとなりかねないでしょう。振武舘の稽古を進める上で規矩となるのは、宗家より伝授される型(同じ型でも教えを受ける側の段階に応じてその内容が刻々変化します)と、稽古の中で培った自身の身体感覚のみなのです。そして日々の稽古の中で進められるのは自己の日常的な心身の否定なのです。
このような自己否定の作業の中では、従前の自己の意識および身体から、戸惑い、疑問、反発が、絶え間なく生起して来るでありましょう。しかし、これに打ち克って、意識を統御し身体を運用する努力を綿々と続けなければ、流儀の深奥になど近づくことすらできません」
(柔術編「第四章 柔術稽古覚書」より)


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