15.「意」とは何か

「用意不用力」(よういふようりき)

太極拳を稽古している人には、なじみの言葉です。
しかし、「意を用いる」とは、つまり、何なのでしょう。もちろん、太極拳の解説書には、説明が書いてあるのですが、、、

野口三千三の言葉がずっと心の片隅にひっかかっていました。『原初生命体としての人間』の一節(P.49)です。

「私は、できるだけ広い範囲のことについて、なるべく反射的に行動することができ、反射的に行動することができないことは、ほんのわずかなことだけで、そのわずかなことについてだけ、意識的に判断をする、それもやがて反射的に行動できるようになり、意識的判断という働きは、次の事柄のために、いつも休んで待機している、といった在り方がよいと思っている」

「意識的判断」は休んでいたほうがいい、という見解です。この言葉を表面的に解釈すると、「意は用いない」ほうがよいと言っているかのようです。

別のページ(「14.ダイナミック・タッチ」)で書いているように、人間の身体には、およそ200個の骨とおよそ630個の筋肉があり、全身にある筋紡錘の数は、約20,000個です。
からだを動かすときに、骨の位置関係とか筋肉の緊張の度合いをどこまで感じ、どこまでコントロールできるでしょう。実際には、ほとんどコントロールしていませんよね。自分は動きたいと思うだけで、からだに「丸投げ」しているようなものです。 特定の部位の動きに注意して動くときもありますが、あまりそこばかりに注意を集中しすぎるとよそがお留守になって、全体としてはうまくいかないことが多いものです。
そもそも、重力に抗して立っていること自体が運動なのですが、どうやって立っているのか私たちは知らないのです。また、その詳細を知る必要もないのです。

「動きにおける諸要素は分析すれば分析できるとしても、実際にはきわめてわずかの意識されている動きと、それにともなった数多くの総合である」

では、野口体操ではどうやって身体を動かしているのでしょう。どのような方法(あるいは意識)で身体を動かしているのでしょうか。

「人間の動きは、もともとこのようなイメージによってしか動くことのできないもので、常識的な合理の世界における意識の指令によって動かされるものではない」

イメージと言われると突飛な感じがするでしょうか。
しかし、イメージで動くのは野口体操だけのことでしょうか。太極拳やテニスやゴルフを習い始めるとき、私たちはそれぞれの競技に固有な動きのイメージを習い、覚えたのではないでしょうか。手の筋肉や足の筋肉を使う順番が書かれたリストを見ながら動き方を習ったことはないと思います。模範とされる動きを見て、マネをするということが、覚える(「イメージを掴む」)ことでした。先生と生徒の間で交わされる言葉は、お互いのイメージを伝え合う言葉ではないでしょうか。 たとえその言葉の中に筋肉の名前が含まれていたとしても、その筋肉の名前はイメージとして使われているのに過ぎないのです。他のページでは解剖学の知識も大切だと書きながら、筋肉がイメージでしかないというのは矛盾しているようですが、解剖学の知識が増えることで今まで使えなかった筋肉が動かせるようになると思う人はいないでしょう。広背筋と千回唱えれば広背筋が使えるようになるのであれば、苦労はないのですが、、、
解剖学の知識は、イメージに説得力を加えるための方便なのだと思います。あるいは、イメージを安全で使いやすいものにするための工夫といってもいいでしょう。不適切なイメージは身体を壊しかねないからです(稽古雑感ページの「9.体の地図作り 」を参照)。

「この最も重要な働きをもつイメージは観念的なものではなく、からだの実感によるものであるから、前もって綿密につくり上げておいて、その後で動くということではなく、何回も動くことの中で、累次創造されてゆくより他はない、というところに難しさがある」

どれだけの人が共感してくれるかは別にしても、野口三千三の言葉は、実に的確です。野口三千三はときに突飛なイメージを展開して、読む者(聴く者)を翻弄するかのようなときもありますが、主観と客観が一致しない、あるいは、一致させることの難しさをよくわきまえた上で、計算ずくで文章を書き、あるいは講義していたと思います。

野口三千三は我々が普通に「意識」と呼んでいるものをこころの「主体」ではない、と主張しています。主体となっているのは非意識の自己の総体であって、その主体が必要なときに意識を創りだし、それを利用するだけなのです。意識的自己というのは、生きものにとってむしろ特殊な状態で、その特殊な意識的自己という状態を除いたすべてを含む広いものが非意識的自己だ、というのが野口三千三の考え方です。(この「非意識主体説」の詳細については、できれば直接同書にあたってみてください)

最初の疑問に戻ります。「意を用いる」とは、つまり、何なのでしょう。
少なくとも、身体の特定の部位に指令を発して動くということではないのは確かだと考えています。 2004.04.23.

補足:
「意識的判断はいつも休んで待機している」ほうがよいという考え方は、「筋肉はなるべく休んでいる」ほうがよいという考え方と同じなのです。
これは武術的な意味での「居着く」ことを嫌う感覚に通じるものがあるように思います。
また、野口三千三は、はっきりと言っています。「ひとつひとつの筋肉を意識的に動かせることが、人間にとって大切なことだと思っていない」と。

『原初生命体としての人間』

著 者:
野口 三千三
出版社:
岩波書店(岩波現代文庫)
定 価:
1,050円(税込)

「実際には意識という働きの必要性が絶えず起こっては消え、消えては起こるので、一定の意識というものが存在しているように、意識の状態にある非意識が意識するだけのことであろう。このように、意識という在り方で働いている時でも、それ以上に圧倒的に多くの働きを、非意識のままで働いているのである。生きものはもともと眠っているときのほうが基本状態ではないのか、ということになる。そして、人間という生きものは、目覚めている時間が、意識が働いている時間が多すぎるようになってしまった生きものではないのか。」
(「第2章 原初生命体の発想」より)


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