33.靴下はきの観察

(またまた佐々木正人先生の登場ですが、よろしくお付き合いください)

「ここではK氏という20歳代男性で、1997年の夏に海への飛び込みが原因で頸椎の5番(C5)を脱臼・骨折した患者さんの行為の発達について報告します」
(『意識の科学は可能か』の「身体からみた意識」より)


この事故によってK氏が負うことになった運動障害は、首から下の知覚と運動の麻痺(触覚と温痛覚がない)で、重篤なものです。

「動きの学習が容易ではないことは、K氏が(中略)「寝返り」ができるまでに3か月かかったというエピソードなどに明らかでした」

健常者にとっては何でもない「寝返り」が学習対象で、なおかつ修得に3か月を要したということからも、障害の大きさがうかがえます。
一方、「寝返り」ができるまで、3か月もリハビリを行ったK氏の意志の強さも感じます。
K氏の目標は、車椅子から自動車の運転席への単独での移動、入浴・排泄・更衣を除いた日常の動作がひとりでできることでした。
このK氏が「靴下はき」という行為(運動)を訓練する過程を、佐々木正人およびその共同研究者が観察しました。ビデオカメラでK氏を撮影し、動きの要素を詳細に分析したのです。
靴下について補足しておくと、K氏の手は物がつかめないため、靴下の口の両側には輪になった紐(ひも)が縫いつけられています。そこに親指をひっかければ、靴下の口を広げることができます。

「9月の後、10月、12月と、1999年の3月に二回、合計5回靴下はきを観察しました。各回で片足にはくまでに要した時間は、それぞれ、約15分、15分、7分、5分、2分でした。時間は確実に短縮しました」

佐々木正人およびその共同研究者はK氏の靴下はきを詳細に記述しました。記述方法の詳細は省きますが、例えば、健常者が15回前後の行為を費やして靴下をはくとすると、同じカウントの方法でK氏の場合は690もの行為を積み重ねてやっと靴下がはけた(9月の観察)のです。
2回目の観察では967回、3回目以降は585回、175回、217回でした。

ところが研究の途中で壁にぶつかりました。
K氏が何をきっかけにして靴下はきの時間を短縮させたのか、K氏が靴下はきをどのように学習したのか、K氏がリハビリの過程でどんな気づき(アウェアネス)を得たのかが、浮かんでこなかったのです。

これまた詳細は省きますが、佐々木正人およびその共同研究者は保育園で幼児の靴下はきを観察します。
そして、K氏の運動を解析するためのヒントをつかんだのです。

「K氏の数百の長い行為系列を4種の下位の行為、(a)転倒しないために、あるいは他のことを遂行するための体幹位置の調整 (b)脚を手元に持ってくる (c)靴下につま先を入れる (d)靴下を引き上げる に分けて見ました」

数百もの行為を(a)~(d)の4種の行為に分類し、時間軸上に4行に分けて配置し、4種の行為の出現の順序や重なりを分析しました。
ようやく、K氏の靴下はきの変化の様子が見えました。

9月は、「終始4つの行為が同時かつ一体に」進行していました。
10月には、始めに体幹部の位置を調整するだけの時間があり、「靴下の操作は体幹姿勢や脚位置の調整と交互にリズミックに交代して」行われています。
12月は、4種類の行為をそれぞれ独立に段階的に行っていました。
3月になると、「再び9月のような4種の行為が混合する動きが」現れてきました。特に3月の2回目の観察では、体幹姿勢の調整と脚位置の変更、靴下の操作が同時に行われていました。

9月の段階では、K氏の靴下はきはいろいろな要素が渾然一体となった動きでした。上記4種類の行為をいっぺんに行おうとしているような動き方でした。
10月、12月は4種類の行為が別々に探られるようになりました。体幹部を安定させる、脚の位置をずらす、靴下を操作することがひとつひとつ確実に実行されるようになりました。
そして3月、再び4種類の行為が同時進行するようになります。

9月と3月の「同時進行」は、その内容がまったく異なります。9月には15分かかっていたことが、3月には2分でできたのです。
この差がどこから生じたかといえば、10月、12月の4種類の行為を個別に練習していた段階にあるのは間違いないでしょう。

K氏の靴下はきの観察結果には、我々の運動の発達の一例が明確に示されています。
我々が上達を望む運動が何であるにせよ、K氏の9月のような状況のまま練習を重ねてもK氏の3月には至らないのではないでしょうか。
K氏の10月、12月の段階を、我々も経過する必要があるのです。あえて慎重に言うならば、必要があるは言い過ぎかもしれませんが、学習時間を短縮するには有効な段階であるとは言えるでしょう。

スポーツでも武術でも、下位レベルの行為の練習、下位レベルの行為を統合する練習があります。自分が今練習しているのはどちらなのか、意識しておくほうがいいでしょう。 2007.11.18.

補足:
本書に収録されている論文と著者は次の通り。
「意識の科学は可能か」苧阪直行
「知覚からみた意識」下條信輔
「身体からみた意識」佐々木正人
「言語からみた意識」信原幸弘
「無意識の探索から意識を探る」山中康裕

なお、靴下はきの研究については、『アフォーダンスと行為』(金子書房)にさらに詳細な解説が豊富な図とともに収録されているので、参考にしてください。

蛇足:
この本を手に取ったのはまったくの偶然で、『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』(小野ひとみ著)を買うときに近くの本棚に置いてあるのがたまたま目に入ったのです。ちょうど『マインド・タイム』を読んでいる頃あたりで、意識に関心が向き始めたこともあり、いっしょに購入しました。
ところが、『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる~』を読んでいたら、苧阪直行の「意識とワーキングメモリの階層モデル」が紹介されていて、参考図書として『意識の科学は可能か』が挙げられているではありませんか。
驚きました。知らないうちに関連図書を同時に買っていたのです。

『意識の科学は可能か』

編 者:
苧阪 直行
著 者:
下條 信輔・佐々木 正人・信原 幸弘・山中 康裕
出版社:
新曜社
定 価:
2,200円+税

「第二に、どんな動きにも特殊な姿勢の変化が伴われる一方で、全身の姿勢は保持される。歩くことは立位姿勢を保持することである。腕で何かを指示することも同様である。姿勢の変化には常に何らかの不変が基盤にある」
(「身体からみた意識」中のウィリアム・ギブソンの引用より)


TOP