40.力は抜けない

先月の感想文「思想する「からだ」」に引き続き、竹内敏晴の言葉を紹介します。

竹内敏晴が野口三千三と交流があったことは、上記ページの補足で触れていますが、あるとき、「いきいきとする」とはどういうことか、とふたりで話し合ったことがあったそうです。

「その時の結論は、入れた力の大きさと抜いた時の落差が大きければ大きいほど、そしてそれに加えて、その変化のスピードが速ければ速いほど、いきいきしている、ということだったと記憶する」
(『思想する「からだ」』所収「リラックスの対位法」より)


「いきいき」(生き生き・活き活き)は一般には、生命力を感じさせるような様子を意味しますが、竹内敏晴と野口三千三はさらに掘り下げていったわけです。
このような「いきいき」の解明にたどり着くまで、はたしてどれほどの試行錯誤を繰り返したのでしょう。
健康ブームの昨今言われる「いきいき」とはずいぶん違うように感じませんか。

竹内敏晴という人は野口三千三と互して語り合えた感性と表現力の持ち主であると思います。
そういう竹内敏晴がある日、どうやって力を抜いたらいいんですかと聞かれ、思わず(少しばかりの酒の勢いで)「力を抜くことは、できません!」と言ってしまいます。
そうして続けた言葉が次です。

「力は、抜こうと思ったら、それだけ入るもんです。力は、からだの重さを、大地か他人にすっかりゆだねることができた時、結果として抜けている。これ以外に力を抜くことはできません」
(同じく「リラックスの対位法」より)


ふだんスポーツに親しんでいる方でも、なかなかこのような考え方はしないのではないでしょうか。 一般には、「からだが重い」と感じるよりも「からだが軽い」と感じるほうがベターだと考えますよね。「からだが重い」イコール「調子が悪い」というマイナスのイメージがあります。ですから、「からだの重さ」を意識すること自体を避けようとしているかもしれません。
しかし、しかし、です。「からだの重さ」を感じる、と、「からだが重い」はイコールではないのです。

太極拳の言葉に「虚実分明」または「分清虚実」という言葉があります。

「虚実とは、具体的にいうと、重心のかかっている足が実、そうでないもう一方の足が虚である。全身の重心を右足にかけているときは右足が実であり、左の足が虚である。(中略)一方を実にし、片方を虚にすれば、転身、移動が非常にスムーズにでき、むだな力を省くことができる」
(楊名時 著『太極拳のゆとり』「稽古要諦」より)


片方の足(脚)に重心をしっかり載せることで、反対の足(脚)を自在に制御できるのです。
ただし、これは脚に限った話ではなく、脚の根元、股関節周辺や腰、ひいては体幹部全体の柔軟性などにも関わってくることなのです。

機会がありましたら、太極拳の動きをじっくり見てください。太極拳は片足だけで立っている場面が多い動きなのです。けっこう、バランス感覚が要求されるんですよ。

力を抜くことの難しさを感じている方には、これらの言葉はきっと参考になると思います。

「この力が抜けた状態の知覚がはっきりして来ると、力が入った瞬間に気づくことが容易になる」
(同じく「リラックスの対位法」より)
2009.1.30.

蛇足:
どうも今現在「いきいき」という言葉を聞くと、高齢者が元気に暮らしています的な、いささか作為的なイメージがつきまとっているようで、いただけません。誰が悪いということもないのですが。。。

『思想する「からだ」』

著 者:
竹内 敏晴
出版社:
晶文社
定 価:
1,800円+税

「(著者のレッスンの紹介から続けて)この安らぎをヒトが立つことの原点とすれば、次は、いかに、最小の力をもって立ち上がってゆけるかが次の訓練になり、立つ、歩く、走る、跳ぶ、踊るポーズのそれぞれを最小の力で支えつつ他の筋肉を自在に遊ばせることを可能にしてゆく」
(「リラックスの対位法」より)


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