55.即身仏とは

先日(2011.9.5~9.7)、山形に行き、即身仏の上人様にお会いしてきました。
お会いした順に、注連寺の鉄門海上人、大日坊(瀧水寺)の真如海上人、南岳寺の鉄竜海上人です。

即身仏とは、俗な表現をすれば、人が生きながらにミイラになっていくことです。
信仰にもとづいた表現では「入定(にゅうじょう)」する、と言います。「入定する」とは悟りを開くことであり、永遠の生命を得ることなのです。
ですから、修行の厳しさもまったく桁が違います。

羽黒山、月山、湯殿山を指して「出羽三山」と呼びますが、なかでも湯殿山は特別に信仰の深いところです。湯殿山の周辺には、即身仏が集中して残されています。

湯殿山系の即身仏の修行を説明しているサイトがありましたので、一部を紹介します。

 湯殿山の仙人沢で山籠りを行う
    ↓
 千日行という千日単位の厳しい修行を行う
    ↓
 五穀断ち、十穀断ちの木食行(もくじきぎょう)を行う
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 生きながらにして土中入定(どちゅうにゅうじょう)する
    ↓
 土の中で鉦(かね)を打ち鳴らし読経しながら即身成仏する
    ↓
 三年三ヶ月(1000日)後に掘り出される
    ↓
 衣を着せられ厨子(ずし)に安置され、即身仏として祀(まつ)られる

『即身仏になるための修行とは』ページより)

穀物を断つのは、体の脂肪を減らしていくためです。代わりに木の実だけを食べます。
水分さえも減らしていきます。
漆(うるし)のお茶を飲む、という説明があるサイトもありました。注連寺のガイドさんの説明にも漆を摂取するという話がありました。内臓を腐らないようにするためだそうです。

「土中入定」では、地面に深さ3メートルほどの穴を掘って石室(いしむろ)を築き、その中に木棺を入れます。木棺には節を抜いた竹を挿して、空気の出入口にします。修行者は、その中に入って埋められます。
修行者はその中で鉦を鳴らしお経を読み続けます。その鉦の音が地上の人に聞こえなくなると、息が絶えたということでいったん掘り出されます。

21世紀の日本に住む我々にとっては、想像もできない苦行の連続です。
ボクサーの減量の苦しさをテレビなどで目にすることがあります。あれですら息が詰まるほどなのに、3年以上の月日をかけて骨と皮だけになるまで食事を減らし続けるというのですから。。。
それほどの苦行を続ける精神状態とはどのようなものでしょうか。
弘法大師様にあやかって永遠の命を授かろうとする、あるいは、自分が苦しみを受けることによって他者の苦しみを救済する、などの説明があることはあるのですが。
とにかく、その精神力に驚嘆するばかりです。

また、上記の修行の説明を読んでわかることは、即身仏の修行には他者の助けが不可欠であるということです。
現実問題として、多くの信者の助けがなければ修行は貫徹できません。
明治以降、一人の例外を除いて、即身仏になられた方はいないと言われています。
現代では、人が死ぬのを手伝うということは「自殺幇助」という犯罪行為になってしまいます。
いくら修行者が「死ぬのではない、入定するのだ」と言いはっても認められることはないでしょう。

私が拝観したお寺さんでは「即身仏はミイラではない」とおっしゃっていました。
ミイラ(ポルトガル語由来)は、脳や内臓を取り出しますが、即身仏ではそのようなことをしないからです。即身仏は死体ではないのです。生きていらっしゃるのです。
エジプトのミイラ作りでは、内臓は防腐処理をして保管されますが、脳は鼻から掻きだして捨ててしまうのだそうです。古代エジプトでは脳は鼻水を作るものと考えられていたそうです。
(Wikipediaの「ミイラ(木乃伊)」ページより)

このようなわけで、厚い厚い信仰に敬意を表して「即身仏の上人様にお会いする」という表現をしました。
また機が熟しましたら、即身仏の上人様にお会いする旅をしたいと思います。 2011.9.13.

補足:
現実には別の側面もあります。民俗学者の五来重(ごらい・しげる)は修験道に関する著作の中で「出羽三山の即身仏は“病死した行者の遺体を、天井に吊して煙でいぶして作った”という当時の記録」を紹介しているそうです→(「即身仏というのは何のために行われたのでしょうか?」ページの説明の後半より)


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