『武術談義』
今やマスコミの寵児となった感のある甲野善紀と、知る人ぞ知る古流武術の達人・黒田鉄山(てつざん)の対談をまとめた本である。
対談の主たる内容は、黒田家が代々伝えてきた武術の説明で、それに絡んで、黒田鉄山の祖父・黒田泰治(やすじ)鉄心斎や曾祖父・黒田寛(ひろし)正郡(まさくに)のエピソード、日本の武術界や柔道、剣道に対する思いなどが語られる。
初版は1988年、15年前だが、内容は古くなっていない。
実を言えば、本書を読むに際しては、黒田鉄山の動きをDVDやビデオで見ておくと、書かれていることが理解しやすい。
例えば、冒頭の基本素振りの説明では、「第一動作では、左手を右手に静かに添えながら右手を左へ返します。この時両拳が正中線からはずれないように注意をします」とあるが、黒田鉄山の基本素振りを見ていないと、この“返す”の動作イメージが曖昧になってしまうと思う。
(本書を読むためにDVDやビデオまで買うとなると少々コストがかさむのだが、黒田鉄山の動きの速さ、美しさ、怖さは、見ておいて損はないと思う)
ただ、術技の説明はとりあえず斜め読みにしておいて、黒田鉄山の祖父や曾祖父のエピソードを読んでいくだけでも面白い。
かつて(おそらく太平洋戦争前)、祖父・泰治師が中国の天津へ行ったときのこと、当時は物騒な世情で、大陸では馬賊が横行していた。ある日、泰治師と仲間の方たちが4、5人で警邏(けいら)していたところ、4人の賊に遭遇した。泰治師がとっさに入身の居合構えとなったため、賊の短銃の銃口がすべて泰治師に集中した(他の人たちは後に退いていた、、、)。
「その瞬間、祖父は千鳥懸けに走り寄って斜刀(型名)で首を刎ね、返す太刀で隣にいた男を袈裟に斬って落としたとのことでした。それを見た後の連中はアワをくって逃げてしまったそうです。
(中略、ひとり目の首を刎ねた後のこと)頭上で太刀を返しながら左手を添えて子袈裟に斬り落としたのですが、わずかに脇腹の肉を残し背負っていた鉄砲の銃身までなますのごとく斬れてしまったそうです。祖父自身、「自分でも日本刀がこれほど斬れるとは思わなかった……」とのことでした」
こうしたエピソードが語られるのは、型稽古を積み重ねた結果どのようなことができるのか、型稽古でどこまで到達できるのか、古伝の型がどれほど価値があるものかということを伝えるためだ。超人的な技を身に付けることを目的とした稽古などは、決してしていないのである。
また、試し切りのようなことは、型稽古がどこまで進んだかを判断するためにすることであって、試し切りそのものが目的ではない。(もちろん、人を傷つけるなどもっての他のこと、、、)
あとふたつ、気に入ったエピソードを紹介する。
ひとつは、現代居合道の始祖・中山博道に関する話で、中山師の技(その修得)に対する執念が伺えるエピソード。
中山博道師は何度か黒田家の道場に訪れ(やはり太平洋戦争前のこと)、自分の型を黒田鉄山の祖父・泰治師に見せたり、泰治師の型を見たりしていた。ただ、曾祖父の正郡師は泰治師に「お前、中山師の前では奥の稽古は決して見せてはいかんぞ」と言いつけており、泰治師はそれを守って、なるべく同じ型しか見せないようにしていた。
ところがあるとき、泰治師が東京へ出かけたときのこと、泰治師は中山博道師に挨拶しておこうと思い、ふらっと道場に立ち寄った。中山師は、袴を着けず着流しの泰治師を裏へ回して、「これをどうぞお着けください」と袴を渡した。泰治師が袴を着けると「どうぞまた表玄関のほうへ、、」と案内する。泰治師が「ご挨拶だけだから」と再三言うのにもかまわず、中山師は「まあ、まあ……」と玄関のほうへ連れて行く。
そうしてから、中山師はおもむろに太鼓を打ち、弟子たちの稽古を止めさせてしまう。「本日は、居合の名人がおみえになったから、御稽古を拝見させていただく!」と言い、弟子たちの制止も聞かず、自ら道場の雑巾がけを始めた。弟子たちは「正座しておれ」と命令され、皆体を固くしてじっとしている。泰治師は帰るに帰れなくなってしまった。雑巾がけを終えた中山師に「さ、どうぞ」と刀を渡されれば、何もできませんとは言えない、、、
すでに大道場を構え、全国に名を知られた大先生になりながら、未知の技を欲する余り、ここまでするという、微笑ましい(迷惑?)感さえある話だと思う。
もうひとつは、さらに笑える話。
ある日、祖父の泰治師が川の浅瀬で泳いでくる魚を抜き打ちに斬っていたところ、正郡師が通りかかり、「おうおう、もったいないことをする奴じゃ、二つに斬った半分を拾っているウチに、もう片方が流れていってしまうではないか……見ておれ」と言いながら川に入ってきた。刀を抜くと切先でピッ!ピッ!とひっかけては魚を岸へ抛り上げてしまう。「こうすればお前のような無駄がない」。ところが正郡師は「……しかし、もっといい方法がある」と言う。何だろう、どんなすごい技だろうと思っているところへ一言、「釣ればよい」。
「武道においては、人間形成とか、心身の陶冶(とうや)などということは、そこに命がかかっている以上ごく当然のことだと思います。その修業の方便として、太刀や実手、小太刀、薙刀などといった各種の武器を扱うことによって、体の運用、心の働き、といったものを学ぶわけですから、それにはまず“優秀な術技を身につける”ということが修業の眼目でなければならないと思います」
2003.11.16.
参考: 中山博道については、吉川英治の小説『宮本武蔵』のモデルだという説があるらしい。吉川英治は、中山博道の門人で居合を習っていた。
戦前、中山博道は、大日本武徳会という全国組織の武道団体から、剣道・居合道・杖道の範士の称号を与えられている。範士というのは最高の称号であり、よほどの技量がなければ与えられるものではない。中山博道はさらに弓術、槍術など各種の武芸に通じていた。
『武術談義』
- 著 者:
- 黒田鉄山 + 甲野善紀
- 出版社:
- 壮神社
- 定 価:
- 2,940円(税込)
「十二時間以上にわたった対談が終わり、夜もふけた振武舘道場で、黒田先生は私の乞いを容れて居合を抜いて下さった。“鞘の中から風が鳴る”という、その“切附”の見事さに私は思わず、もう一本無理にお願いして、今度は黒田先生の前に木刀を持って立たせていただいた。
そして私は、この時はじめて、居合の“鞘の内”の恐ろしさを知った。座構えに構えられた黒田先生は、こちらから打つには遠く、それでいて向こうからは瞬時に届く、という不思議な間合いなのである。相打覚悟で飛び込んだとしても「私の太刀が届く前に、向こうに斬られる」というその感じは、あたかも矢を番えて引き絞った弓の前に立たされている思いであった。」
(「対談を終えて」より)