『私の身体は頭がいい』

奥付を見ると、初版第1刷の発行日付が2003年5月15日で、第2刷の発行日付が2003年6月15日となっている。部数は不明だが、出版社の予想を超えた売れ行きだったことがわかる。 このページを覗いてくださる方々の中には、すでにご存じの方もいるかな、と思う。

著者の内田樹(たつる)は、神戸女学院大学の文学部教授(フランス現代思想・映画論・武道論)で、合気道を長年修業している。著者いわく「私の武道歴はもう三十年を越し、研究歴より長い」とのこと。甲野善紀と交友があり、これからは名前を見る機会が増えるだろう。

内容としては、真面目な武道論が2編(紀要論文)、軽い感じのエッセイが18編、医療に関するインタビュー記事が1編が収録されている。これらを合わせた全体が210ページほどで、読みやすい本だ。

一見軽そうでいて、さらっと難しい言葉を混ぜ、さりげなく決めゼリフを散りばめる。そんな感じの文体だ。適当に書き殴ったふうを装っているが、それなりの計算が行き届いているように思う。ただ、読み難くはないが、ときどき引っかかることもある。
例えば、「ヴァナキュラーな身体」とか「コード・シフト」とかって「何?」と思ってしまう。「レヴィナス」(学者?)、「モナド」(ギリシャ哲学だっけ?)、「ラカン」(確か哲学者?羅漢とは没関係のはず)、「デュルケーム」(社会学者だったかな?)、こういうのって、正直なところ、いちいち調べるのが面倒くさい。だから、調べないで読み流してしまう。
しかし、ちょっとカッコ良い文もあり、パクっちゃおうかなと思ったりもする。
例えば、
「外からの加撃を無数のセグメントに分散する手法が推手であり、無数のセグメントの力を一つにまとめるのが発力発勁であり、それは同じプロセスの裏表である」
「武術的身体運用はたとえていえば、「バナナの皮で滑る」ような動きを意図的に統御して、相手の「期待の地平」から姿を消す、ということを技法的な課題のひとつとしています」
「剣や杖は「負の条件づけ」としてある。言い換えると、一種の「謎」として修業者に与えらる。(中略)武具は、それを「使おう」とすると、それに「使われ」、それを「操ろう」とすると、それに「操られ」、結果的に道具が主、人間が従になるように構造化された「謎」なのである」
「武道の根本にある原理は、武道は勝つことを欲望する主体の廃絶を目指す、ということである」
「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」
(これはレヴィ=ストロースからの引用だそうだけど)

本書で注目したいのは、小論文『非中枢的身体論-武道の科学を求めて』の中の「形(かた)稽古」に関する記述だ。
ここでは、武道の競技化という問題に関連して、講道館柔道の創設者・嘉納治五郎の苦悩の歩みが紹介されている。
初期の講道館柔道では「形(かた)」と「乱取(らんどり)」の二本立てで稽古をしていた。

「「形」によって、ふだん人間が決してしないような、危険で「不自然な」身体運用を稽古し、「乱取」によって筋肉骨格のバランスのとれた発達を促す「自然な」身体運用を稽古する、というものである」

それをあえて分離したのは、「嘉納の本意ではなく、むしろ学校教育への導入という状況のしからしむるところ」だった。つまり、

「明治十六年(一八八三)年、文部省は体操伝習所に対し、剣術、柔術の教育に与える利害適否を調査するように通達し、東京大学医学部長ほかの医学者に柔術の体育科目としての適否を吟味させた。意外なことだが、そのときの検分では、柔術は体育科目としては不適当なり、との判断が下されたのである」

明治維新以後、武術は「旧弊で反近代的な殺人技法、封建遺制の一部として、厳しく排斥」されていた。日露戦争の勝利の後、学校体育の中に武術を取り込もうという動きがようやく本格化したのである。
嘉納治五郎は、体操伝習所が柔術について「害もしくは不便とする点」として挙げた条件をクリアするように柔道を「改善」していった。

「その結果、体育正課への採用と同時に講道館柔道が全国に普及してゆく過程で形稽古はしだいにかつての重要性を失い、柔道の稽古は乱取主流に移行することになった。しかし、それは嘉納が当初構想した形と乱取の総合的な稽古法の歪みを意味することでもあった」

嘉納治五郎はこうした状況を憂慮し、「形の体系」を柔道の根幹に据え直そうと考えたのだが、「晩年の嘉納が心血を注いで考案した『精力善用国民体育』はついに普及することがなかった」。

嘉納治五郎自身が柔道の競技化、スポーツ化を、すなわち「武道的な本質からの逸脱を深く危惧」していたことを、我々は知っておくべきだと思う。

ただし、(本書の内容からは離れるが)気をつけたいのは、「武術がスポーツよりも上だ」という妙な優越意識に陥らないことである。
命を懸けるから武術家のほうが優れた技術をもっている、という理屈を言うならば、国の名誉を懸けて戦うスポーツ選手のほうがさらに緻密な理論に基づいた技術をもっているという理屈も成り立つと思う。
武術もスポーツも同じ人間の身体を動かすものであり、別の枠組みに入れて考えるのは、まったくもって便宜上のことに過ぎない。(もちろん、自己の理論構築のために枠を設定することは当然あるだろうし、読者の便宜を図って枠に当てはめるのもいいと思う)
最近は、スポーツ選手が武術の動きを取り入れたと言ってはマスコミが大きく取り上げるのが流行りだが、武術家がスポーツの一流選手の動きに学ぶことだってあるわけである。
今のブームが武術偏重に行きすぎないことを願っている。

実は、本書を読んでいて一番感じたのは、「武術」とか「スポーツ」というジャンル分けにどんな意味があるのか、ということだった。
人間の動きに的を絞って考えるのであれば、「武術」も「スポーツ」も等しく方法論のひとつとして参考にすればいいと思う。
(そして、自分がこう考えるのは、おそらく、野口三千三の影響が大きいのだろうな、と感じている。野口体操の考え方は、「武術」とか「スポーツ」とかいう枠から解放されているからだ)

ところで、内田樹教授が論陣を張るときの装備は、現代フランス思想家の考え方らしい。
内田先生に限らず、身体関係の文章にはときどきメルロ=ポンティの『知覚の現象学』なんてのが引用されてるけど、ものすごく分厚い本で、なかなか手が出せない、、、
で、そうしたこととは、まったく関係なく、私は今、真に革新的な運動論は、“アフォーダンス”から生まれてくるのではないかと勝手に思っている。

(誰か「アフォーダンス運動論序説」なんて感じの本を書いてくれないかなあ)

内田樹教授のサイト[http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/
(紀要論文「非中枢的身体論-武道の科学を求めて」と「木人花鳥-武道的身体論」2003.11.24.


注: 本書のタイトルは、著者のオリジナルではなく、源氏物語の現代語訳で一世を風靡した橋本治(古くは小説『桃尻娘』で有名)の言葉を、橋本治の了解を得たうえで使用しているとのこと。

『私の身体は頭がいい』

著 者:
内田 樹
出版社:
新曜社
定 価:
1,890円(税込)

「私は師匠にこれだけ尽くした。だから、これだけのリターンがあってしかるべきだ、というふうな功利的な発想は師弟関係になじまない、と私は考える。
いや師弟関係に限らず、真に重要なすべての人間関係はそういうものではないだろう。
例えば、育児がそうだ。私はこれだけの時間と労力を割いて子どもを育てたのだから、その分の「見返り」をよこせ、と子どもに要求するのは親として間違っている。
(中略)子どもを育てている時間の一瞬一瞬の驚きと発見と感動を通じて、親はとても返礼することのできないほどのエネルギーと愉悦を子どもから受け取っているからである。
師弟関係もそれと同じだと私は思う。」
(「師弟関係について」より)


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